Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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明野村Z2




【迷宮を包み込むこと】
《瞬間における触発》という迷宮を、ある連続的なプロセスへと包み込むことによって、
この触発は、「認識され得るもの」としての〈何か他のもの〉へと変換される。この〈何か
他のもの〉は、触発そのものとは異なり、展開され分布を持つはずである。確かに我々に
とって、〈痛み〉は、さまざまな〈強さ〉をさまざまな時空点において持っているように見
える。〈我々〉がお互いに語り合うのは、この展開であり、分布である。
だが、〈痛み〉の持つさまざまな強さ、時、場所とはそもそも何なのか? 例えば、『誰
かがガラスの破片で手を切ったとしたら、まさに〈その〉時であり、〈その〉場所であり、
〈その〉痛みの強さ』なのか? あるいは、『〈私〉が……するまさに〈この〉時であり、
〈この〉場所であり、〈この〉痛みの強さ』なのか? 
もし〈包み込み〉があり得るのならば、その条件は何か?
カントは、「包み込み(Subsumtion)」(A137/B176)が可能であるための条件を、《超越論
的図式》(das transzendentale Schema)と呼ぶ。(その操作的・機能的側面あるいは「働き
(Aktus)」(A103,B130)に注目した場合は、「図式性」と呼ばれる。) 〈出来事〉との関係
で、簡潔にこの条件を見てみよう。〈我々〉は、ある出来事を、何らかの様態=αにおいて
受け止める。例えば、ふと気づくと、ある魅惑的な音の流れが聞こえてくるということ、
このことにおいて〈我々〉は、ある特異な〈音の流れ〉の生成という様態=αとして出来
事を受け止めている。
 ところで、『〈音の流れ〉の生成という《出来事=α》がある』という〈受け止め〉は、
すでに〈包み込み〉によって生産された〈知〉である。出来事は、同時にその出来事「が
あること」の〈知〉として包み込まれている。《超越論的図式》と呼ばれるものは、この〈知〉
としての包み込みの条件である。
『Xは実際にある』と言う場合、出来事は「…があるということ(実在性)」というタイ
プの包み込みを受けている。出来事そのものは、いきなり包み込まれることはできない。
つまりそれは、例えば〈音の流れ〉の生成という《出来事=α》として受け止められるこ
とにおいて初めて〈実際にあるもの〉(実在的なもの)として包み込まれる。すなわち《超
越論的図式》は、音の流れの生成という《出来事=α》と《があるということ》を結び付
ける。
このように、その都度の出来事が言語において受け止められ、包み込まれているという
ことは、言い換えれば、〈我々〉によって共有され、使用され得る〈知〉として《言語》が
成立しているということである。「構想力」の超越論的な働き・過程としてのこの「図式性」
は、カントによって「人間の心の奥深くに隠された技芸」(A141/B180f)と呼ばれる。この
「技芸」は、「組み合わせ文字・図案化記号(Monogramm)」(A142/B181)とも呼ばれる。
《図式》は《絵画文字》における絵画と文字の出会いを実現するのではないか?(注2)
ところで、《瞬間における触発》という出来事は、そもそも何らかの《出来事=α》として
〈我々〉に与えられなければ「…があるということ(実在性)」という包み込みを受けるこ
とができなかった。この〈与えられるということ〉は、《我々人間》が持つ《直観の形式》、
すなわち「我々が対象によって触発される仕方」(A19/B33)と呼ばれるものによって可能
になる。
もちろんこの〈包み込まれ得るもの〉は、まだ〈実際にあるもの〉(実在的なもの)とし
て〈包み込まれたもの〉ではない。《超越論的図式》は、《瞬間における触発》という出来
事の包み込みのプロセスにおいて、〈我々〉の直観の形式と思考の形式(包み込みの形式)
を互いに結び付ける。言い換えれば、《超越論的図式》は、《瞬間における触発》という出
来事の包み込みにおいて、直観の形式を思考の働きへと組み込むことによって、《瞬間にお
ける触発》という出来事を《まさにこの痛み、暑さ、音、……の経験》として受け止め、
包み込まなければならない。

【連続体を造型すること――線を引くこと】
1.『〈私〉は今この胸に痛みを感じている』と2.『〈私〉は線を引き、数える』がお互
いに取り結ぶ関係を見よう。もしこの関係が破綻すれば、1も2も消える。つまり、1と
2のどちらか一方だけが成り立つことはあり得ない。例えば羊水中の「胎児」には、この
どちらもないだろう。〈私〉も〈言葉〉もない。まして『〈私〉は〈私〉、〈痛み〉は〈痛み〉、
A=A』はない。この胎児は〈自分の叫び声〉[=A]を聞かない。(だが〈私〉は、この
胎児が叫ぶのを聞き、感じる。あたかも〈私〉に〈痛み〉を訴えているかのように。) で
は誰かにとって、1だけが成り立つとしよう。彼は今確かに自分の胸に痛みを感じている。
だが彼は線も数も知らないし、そもそも生まれてからこの方線を引いたことも数えたこと
もない。たとえ他人にとって、指を動かし、線を引いたり数えたりしているように見える
としても。『〈私〉は〈私〉、〈今〉は〈今〉、〈この胸〉は〈この胸〉、〈痛み〉は〈痛み〉、
〈感じる〉は〈感じる〉』は分かっても、「痛いところはどの辺ですか?」と問われて痛い
ところ(この胸)とそうではないところを区別して示すことはできない。つまり、境界や
領域(こことあそこ、この時とあの時)を知らない。それ故「いつ頃から痛むのですか?」
と問われても、その〈いつ〉を理解できない。ある時とその次の時を区別することもつな
げることもできないのだから。〈分けること〉と〈つなげること〉のどちらか一つだけが成
り立つことはあり得ない。〈線を引くこと〉と〈数えること〉は、〈分けること〉でもあり
〈つなげること〉でもある《一つにまとめること》(総合的な統一)なのである。
 ところで、彼は自分と他人、〈内〉と〈外〉の区別も含めておよそ一切の〈区別〉を知ら
ないはずだ。彼は語ることも書くことも「心の中でつぶやく」こともできない。彼には〈言
葉〉がそこで成り立つ空間と時間(あるいは内と外)の区別と対応という限定された場が
ない。彼はどんな限定された場とも無縁である。よって、彼には〈私は〉も〈今〉も〈こ
の胸に〉も〈痛みを〉も〈感じる〉もない。というわけで、逆に2だけが成り立つことも
あり得ない。なぜなら、その場合彼には〈私は〉も〈今〉も〈この胸に〉も〈痛みを〉も
〈感じる〉もないのだから。
直観の形式によって《瞬間における触発》という出来事は〈包み込まれ得るもの〉とな
り、思考の形式(カテゴリー)によって〈包み込まれ得るもの〉は〈包み込まれたもの〉
となる。《超越論的図式》は、1.《瞬間における触発……!》から《時空……!》へとい
うプロセスと、2.《時空……!》から《今ここが痛む!》へというプロセスを、一つのプ
ロセスとして包み込む。
ところで、この包み込みのプロセスは、〈線を引くこと〉において空間と時間を不可避的
に結び付けることである。このことによって、『〈我々〉が現に今ここにあること』が、言
い換えれば、《現に今ここにいる我々》(Dasein)が生み出される。このプロセスにおいて、
すでに〈私〉は〈我々〉として生み出されている。つまり〈線を引くこと〉は、〈私だけの〉
ではなく、《我々の経験の形式》を構成している。
従って、先の1と2が不可分であるということは、『〈我々〉は、〈線を引くこと〉によ
って《現に今ここにある我々》となることにおいて、初めてある〈痛み〉を感じるのだ』
ということなのである。
〈痛み〉は、そして〈まさにこの感じ〉と呼ばれるものは、この〈我々〉の産出ととも
に誕生するのである。
 【〈線〉から〈まさにこの線〉へ――印象の鮮やかさを巡って】
ここで、「批判」を準備したとも言えるヒュームに登場してもらおう。(ヒュームの主著
A Treatise of Human Nature からの引用または参照箇所は、Oxford University
Press.1985.の頁数により示す。) 
 ヒュームによれば、すべて観念は印象の微弱な「模倣あるいは再現」に過ぎない。観念
と印象は、その「強さと活気」(p.19) が違うだけなのである。(cf.ibid.) また、どんな印
象も「決まった量と質の程度」を持つ。例えば、ある印象は「これだけの長さと曲がり具
合」の線として受け止められる。そして、印象同士はその「決まった量と質の程度」に関
してお互いに似ていたり似ていなかったりするのであり、その限りで〈線〉、〈直線〉、〈曲
線〉、〈円〉といった様々な「一般的観念」が生まれる。
ところでこれらの印象は、量と質(ここでは長さと曲がり具合)に関してどれだけ似て
いたり似ていなかったりするのかというその程度において〈連なり〉と〈切れ目〉を持つ。
例えば、「この二つだけ明らかに曲がっているが、残りはどれもほぼまっすぐ。こっちはみ
んなだいたい同じ長さ」といった具合である。さて、これらの量と質は、印象に先立って
は与えられていない。従って、この〈連なり〉と〈切れめ〉は、これらの印象がある「見
え(方)」(p.25)において、どれだけ強く活気があるかということによってのみ生まれるは
ずだ。つまり、このことに先立つ何らかの《アプリオリな条件》はないはずだ。もし、あ
る「見え(方)」においていくつもの印象がとても生き生きしているのならば、これらの印
象はその「見え(方)」に関してまとめられる。その結果、例えば果樹園で「みんなとても
赤い!」と受け止められることになる。この場合は、「赤い」と後に呼ばれる「見え(方)」
を焦点とした印象の「収集」(cf.pp.20-25)である。だが、もし何か「(我々には未知の)出
来事」が起こって、果樹園の一角に「青い!」と後に呼ばれる「見え(方)」に関する印象
の〈連なり〉が生まれるならば、同時に「赤い!」との間にはっきりとした〈切れ目〉が
できる。「青い!」という「見え(方)」が新たに強く際立ったわけである。ポイントとな
るのは、様々な「見え(方)」に関して印象の強さと活気の程度に連なりと切れ目があるか
らこそ、結果として何らかの量と質、さらには一般的観念が生まれる、ということである。
あくまでも、印象の《鮮やかさ》が観念や印象に先立つのである。
むろん、人によっては――とりわけ哲学者なら――「ここにヒュームの循環を見るのは
たやすい」と言いたくなるに違いない。「結局、印象の〈連なり〉と〈切れ目〉をもたらす
ものを個々の印象に先立って持ち込むことになるのではないか? それが言語、概念、イ
デア……その他、何と呼ばれる/呼ばれてきたにせよ(そしてそれが真相なのだ)」、と。
だが、ヒュームはあくまでも個々の印象から出発する。〈まさにこの線〉こそが線の一般的
観念、つまり「あらゆる線の(〈連なり〉と〈切れ目〉を含む)全体集合」に先立つ。〈ま
さにこの線〉とは、まさにそうしたものとして受け止められ包み込まれる出来事、すなわ
ち《印象》なのである。
だが、なぜそもそもある印象は〈まさにこの線〉として受け止められ包み込まれるのか?
彼自身が言うように、その都度与えられるどの印象によっても〈線というもの〉は決して
与えられはしない。従って、〈線として〉もかつて与えられることはなかったはずである。
とすれば、〈まさにこの〉とは一体何だろうか? つまり、なぜこれこれの印象は〈まさに
このX〉としてとても生き生きしているわけなのか? なぜ〈X〉としてであって、例え
ば〈Φ〉としてではないのか? 〈Xというもの〉、それは一体どこからやって来るのか? 
(注3)
むろん〈Xというもの〉は、〈我々〉の生活にとって必要不可欠なものである。それは、
《瞬間における触発》という出来事が〈まさにこのX〉として受け止められ包み込まれる
ための背景であり、〈我々〉の生存においてお互いに共有されている。しかし、それは消失
し得る。そして、この背景が消えてしまえば、それと同時に〈まさにこのX〉も消える。
この本来共有されるべき背景の消失は、〈我々〉がお互いに語り合うこと、いわゆる《言語
ゲーム》の機能停止(あるいは深刻な機能障害)をもたらす。従って、お互いに共有され
る〈Xというもの〉なしに、「〈まさにこれ〉なのだ!」とあくまで言い張る者と、「違う! 
そうではなく、〈まさにこれ〉なのだ!」とあくまで言い張る者との間には深い断絶がある。
また、「〈まさにこの★〉こそが〈★というもの〉なのだ!」とあくまで言い張る〈共同体〉
のメンバーと、「違う! そうではなく〈まさにこの☆〉こそが〈☆というもの〉なのだ!」
とあくまで言い張る〈共同体〉のメンバーの間には、しばしば生死を賭けた果てのない闘
争がある。それでも〈我々〉の生活にとっては、本来不可分であり互いに参照し合う〈X
というもの〉と〈まさにこのX〉は、どうしてもともに必要とされる。求められているの
は、これら両者のつながりを付けるものなのである。


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